こんにちは、たみです。
先日、ハス山氏主催のクソ記事選手権に参加してきました。
わたしは『親知らずを知らしめたい』という記事でエントリー。
ありがたいことに、25点満点中24点という高得点をいただけた。この点数は本大会の最高得点(タイ)なので、大変名誉なことである。
クソ記事選手権のエントリーを告知したTwitterには、たくさんのイイネとリプライが届いた。あくまで「選手権」のはずなのに、同じ大会に出た参加者たちからのお褒めの言葉を賜った。
もうね、やさしいの。クソ記事選手権の半分は優しさでできている。
選手権っていうぐらいなんだから、もっと参加者同士で争ってもよさそうなのに、ちっとも争わない。むしろ互いを称賛しあっているわけ。なんてできた人たちなのか。
おそらくなんだけど、この優しさの根底には、クソ記事を産む苦しみが関わっていると思う。皆ほかの参加者と戦っている余裕がない。自分VSクソ記事VSダークライ。その苦しみを味わっているからこそ、同じ頂を目指す者同士称えあうことができるのだと思う。
おそらくとか、思うとか、なんでそんなふわっと語っているかって、
わたし、産みの苦しみ味わっていないもので。
そりゃもう安産。つつがなく執筆してエントリーした。第2回のときもするっと産まれたし、クソ記事安産体質なのかもしれない。
なんでかなー。
どうしてクソ記事安産体質になってしまったんだろうなー。
文章にお賃金をいただくようになって約1年、これはかなり由々しき事態だ。なんたって、クソ記事はスムーズに産むことができるのに、為になる記事は超難産。いきんでもいきんでも出てこない。やっと出た!と思って足元をみるとうんこが転がっているみたいな感じなわけ。
漫画のかっこいいシーンで、「試合に勝って勝負に負けたか」みたいなこというシーンあるでしょ。たぶん、今まさにわたしそれなの。クソ記事選手権でいい成績を収めたけれど、ライターとしては割と致命的な弱点を抱えたこの状況なら、言えるはず。
この場合、わたしは試合と勝負、どちらに勝ってどちらに負けたのか。
試合がクソ記事選手権、勝負をライター人生として、考えてみよう。
クソ記事選手権では高得点をもらえた。たくさんの感想ももらえた。試合VSわたしは、わたしの勝利と言っていいと思う。
先日文字を書くお仕事をいただくときに「ポートフォリオがあれば見せて下さい。ブログとか、自分が書いた記事など公開できる範囲で構いません。」と言われたの。それで何も考えずにこのブログをポートフォリオとして出そうとしたわけ。
原付に生首マネキン置いたり、ちんちん連呼しているこのブログを。
危なかった。わたしに理性が残っていて助かった。信頼が大事な商売なのに、蛮族だと思われちゃうところだった。(ポートフォリオはかろうじてまともそうな数点をピックアップして渡した。)
わたしVS勝負、敗北が濃厚。コールドゲームの可能性すら出てきたよね。ピッチャーわたしが、暴投を繰り返している。たまたま、暴投した先にクソ記事選手権が大きな懐で、ばっちこーいつってね、構えていてくれたから何とかなった感はある。でなければ、もうマウンドから降りてた。
ということは、これ、別段試合にも勝っていないかもしれないな。主催のハス山氏をはじめ、参加者のやさしさによって自己顕示欲が天高く昇ってしまったけれど、クソ記事の読者がいなければ、わたしは奥歯をぶち抜いてインターネットで晒すヤバめパーソンだ。
試合にも勝負にも敗北した可能性が出てきて、もう、感謝しかない。
ここまで自己顕示欲を育ててくださった、読者の皆様ありがとう。クソ記事選手権を開催してくれたハス山氏ありがとう。お疲れ様でした。
これからも、何かとクソ記事で戦っていきますので、もし試合にも勝負にも勝つことができたら私と一緒にシャンパンファイトしてください。
それでは。