しもじものたみ

生き抜け!コンクリートジャングル

斑目貘は神か戦友か~映画『嘘喰い』を見た感想~

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※映画『嘘喰い』について書いています。ネタバレにご注意

 

こんにちは、たみです。

 

わたしは、ファンタジー色が強い原作の実写化作品は見ない。昔は作品名につられて見たものだが、そのたびに悲しい思いをしてきたので見ないことにしている。実写化作品全般を見ないのかと言われれば、そうではない。恋愛モノや推理モノなど現実に即した作品であれば見ることもある。

その作品が、現実に落とし込めそうであれば観る。そうでないなら観ない。これは作品とわたしがWin-Winの関係であるために必要な選別作業だ。

 

そんなわたしの目に飛び込んできた「『嘘喰い』実写化」のニュース。

 

きわどい。

判断に困る。


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嘘喰い』はギャンブル漫画。物語の舞台は地球の現代日本だし、登場人物がビームを放ったり、サイコキネシスで物を持ち上げたりしない。しかし、現実離れした登場人物はふんだんに出てくる。

我々の生きる地球上でどれだけの人間を集めても、おそらくビームを放てる人材はいない。一方、『嘘喰い』の登場人物は1億人に1人ぐらいの確率でいるんじゃないか?と思わせるリアリティのあるファンタジーだ。

現実に落とし込めるかどうかのぎりぎりのラインにいる。

 

どちらに転ぶかこの目で確かめよう。

 

ということで、映画『嘘喰い』を観てきたので、漫画版と比較しつつ、思ったことを述べます。

 

実写『嘘食い』を見る

 

嘘喰い』の主人公は誰か

「『嘘喰い』の主人公は誰か」と聞かれたとき何と答えるか。

漫画を読んだ人の多くは、おそらく「梶隆臣」もしくは「梶隆臣と斑目貘」と答えるとだろう。映画で取り上げられた「廃坑のババ抜き編まで」という但し書きを付け加えると、「梶隆臣」を主人公という声が多くなると思う。

では、「映画『嘘喰い』の主人公は誰か」と問われたら、どうか。わたしは「斑目です」と答える。

 

映画『嘘喰い』で一番感心したのは、梶隆臣の再現度の高さだ。

梶隆臣は借金を抱えるうだつのあがらないフリーターだ。梶役の俳優さんは容姿のすぐれた男性だったので「この人に梶ちゃんのぱっとしない感じを出せるのだろうか」と思っていたが、いざ映画を見ると大変ぱっとしない。これは本当にすごいことだと思う。

梶の人間性は、漫画でも映画でも変わらない。

映画の主人公が梶ではなく、貘だと感じたのは梶が原因ではなさそうだ。

 

では、斑目貘はなぜ映画の主人公になったのか。

 

神の貘と、戦友の貘

漫画『嘘喰い』において、梶というキャラクターは共感できる数少ない登場人物である。まともな人間と言い換えてもいい。命の危機できちんと恐怖し、うれしいことを素直に喜び、予想外の事態に驚くことができる人間だ。読者は彼と同じ気持ちで物語を読むことになる。

一方、斑目貘はちっとも共感できない。彼には人間味がないのだ。

人間味がないというとまるで貘がロボットのようだが、そういう意味ではない。貘もおちゃらけることもあるし、泣いたり笑ったりする。それでも、人間味がどこか薄い。

 

芥川龍之介の『蜘蛛の糸』では、お釈迦様が蜘蛛を助けた罪人を救おうと地獄に糸をたらし、罪人が自身のあさましさのせいで再び地獄に落ちたところを見て悲しい顔をする。

斑目貘はまるで神なのだ。梶を助けるし、喜んだり悲しんだりするけれど、それは『蜘蛛の糸』のお釈迦様のような、人間を一段上のステージから見ている者のふるまいだ。

日本人離れした銀の髪と美しいかんばせも、男らしさも女らしさもない中世的なふるまいも、斑目貘が神の証明であるかのようだ。

だから、漫画の貘は主人公にはなれない。神が与えた試練を主人公が乗り越えるのだ。貘によってあれよあれよと命がけのギャンブルに巻き込まれる梶を主人公だと感じるのは当然だろう。

 

では、映画『嘘喰い』の斑目貘はというと、打って変わって人間味がある。

わたしが映画を見ている最中じわじわと「これは漫画の貘さんとちがうな」と思った一番の要因は生え際だ。俳優さんはこの作品のために髪を染めたらしい。ほんの数ミリだが、地毛の色が見えるのだ。

神は成長しない。能力に伸びしろはなく、過去も今も未来も最高であり続ける。

ほんの数ミリの髪の伸びが、彼を人たらしめたと思う。

 

映画の貘は人間だ。梶と、読者である我々と同じ人間だ。

漫画における二人の関係は神と信徒のようだが、映画では同じ修羅場を生き延びた戦友だ。揃いのガッツポーズは、お互いをたたえる証だ。ババ抜きの対戦相手への叱咤も、神の裁きではなく、人間から発せられる感情が見える。

映画『嘘喰い』は、ダブル主人公です。と言いたくなるが、悲しいかな、梶ちゃんはぱっとしない男なのでどうしても華のある言動の貘さんにスポットライトが当たる。

 

だから、「『嘘喰い』の主人公は誰か」と聞かれたら、ちょっと悩んで、心で梶ちゃんに詫びつつ「斑目貘です。」と答えるだろう。

 

漫画でこの関係に一番近かったのは、伽羅と貘、もしくはハルと貘だろう。しかし伽羅も天災のような圧倒的暴力を持つし、ハルも天才的な頭脳の持ち主で、2人とも神側の存在だ。人間としての貘と対等な誰かという関係は映画ならではで新鮮だった。

 

「分かっている人」がいるよろこび

斑目貘を比較しただけでもわかるように、漫画と映画では違う部分がまぁまぁある。

わたしは原作の設定を曲げてまでオリジナル要素を入れることに反対派だ。オリジナルまみれの作品を見ると、「実は誰も原作を知らないのでは?」という不安と悲しみを抱くことがある。

映画『嘘喰い』でもオリジナル要素はふんだんにあしらわれていたが、亜面真琴が登場したとき「少なくとも1人は原作を読んでいるに違いない」と安心した。チョイスが渋すぎる。

わたしが廃坑ババ抜きで一番好きな構図である、首つり縄ごしに貘の顔が見えるシーンも再現されていてよかった。

漫画を読んだ誰かが、このシーンを入れてくれたと思うだけで少しだけ心が救われる。

 

続編、できそう?

わたしは、映画『嘘喰い』は可もなく不可もないと思う。原作を知っているから物申したくなるシーンはあるが、映画そのものの出来はいいと思う。『嘘喰い』初見であれば問題ないはずだ。

残念な点をあげるとすれば、続編が望めないということだ。

何らかの都合でこの度改変されたシーンには、クライマックスに向けて重要なシーンが山ほどある。続編を作るとしたら、つじつまを合わせるためにまた別の設定を上塗りしなければならない。そうしてできた作品は果たして『嘘喰い』なのだろうか。

 

実写映画化することの最大のメリットは、普段原作に触れることのない層に興味を持ってもらえることだ。わたしは『嘘喰い』が大好きなので、もっと世の中に知ってほしい。貘さんの華麗な手腕を見て脳汁ドバドバ出してほしい。

世の中に広く『嘘喰い』を認知してもらうためにも、ぜひ続編は公開してほしいが、できればありのままの『嘘喰い』を知ってほしいという、複雑な気持ちを抱いている。

 

この気持ちをいい感じに解消できる、そんな続編を期待せずにはいられない映画だった