しもじものたみ

生き抜け!コンクリートジャングル

『凍りのくじら』は、できることなら読み返したくない本

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先日、友人と「何度も読み返しちゃう本ってあるよね」という話になった。あるある。わたしは気に入った本を持ち歩く習性があるので、何度も読み返す本ほどボロボロになってしまう。リュックのなかで他の荷物に揉まれて、角がつぶれ、紙が波打つ。長年着古したTシャツの襟のような存在感を放つのだ。しまいには、ぽろっと表紙が取れる。ハードカバーの本だと特に取れやすい。わたしの本棚には、表紙をなくした本がいくつか鎮座している。

 

もし、「読み返したくない本ってある?」と聞かれたら、なんと答えるだろう。やはり、つまらなかった本の名前を挙げるのだろうか。しかし、つまらなかった本というのは、大抵記憶に残らないので、「あぁ読み返したくないなあ」なんて思うこともない。読み返したくないと思うためには、なにか鮮烈な印象がなければならない。

 

この、なにか矛盾したような質問に、わたしは「強いて言うなら、辻村深月の『凍りのくじら』ですかね」と答えると思う。

 

『凍りのくじら』の登場人物は、どうにも全員から、うっすらと嫌な臭いがする。主人公の学外の友人カオリは、より良い男を求めて飲み会(という名の合コン)に参戦を続ける肉食系。同じく学外の友人の美也は、自他ともに認める頭の悪さを恥とも思っていない、教養のなさをかわいさアピールに使うような女子だ。主人公の学校の友人と言えば、校則やこの世の不条理を正そうと、反骨精神むき出しでひた走る生徒会長、加世と、常に不安を抱えた様子で「どうしよう」と依存先を探す立川。ほかにも、鼻につく性格の人間が多々出てくる。

 

そんな本作で、ひときわ異臭を放つ、鼻持ちならないキャラクターが2人いる。若尾と、主人公の理帆子だ。

若尾は、美しい男である。美しいかんばせを持ち、社会の汚さに触れたことはなく、高尚な夢を語る、司法浪人中の成人男性だ。とうの昔に大人と呼ばれる年齢になっていて、語る言葉の節々から知性が感じられるのに、穢れを知らない幼児のような印象を受ける、理帆子の元カレ。

一方、理帆子は、女子高生だ。大人のずるいところを目の当たりにした、希望も絶望もない、達観した女子高生。敬愛する藤子・F・不二雄のSFの解釈(SF=スコシ・フシギ)をまねて、心のうちで周りの人間にあだ名をつけている。

 

理帆子という人物は、読者に同情されるための条件を、おおよそ持っている。彼女の"両親は癌に殺されていく”。父は癌をきっかけに消息不明になり、母も癌を患い余命いくばくもない状況だ。(元)彼氏は客観的に見ればダメ男だし、作中何度か不幸が襲い掛かる。

こんなに、かわいそうな条件がそろっていても、理帆子に同情することはできない。

"頬に散ったニキビ跡と隙間の目立つ前歯。軽そうだし、私はタイプじゃない。美也は好きそう。"

”意見や感想っていうのは、それを受け止めることができる頭を持っている人間相手じゃなければ、上滑りして不快なだけだ。”

”あんたたちはみんな、頭だけ良過ぎてきっと暇なんだ。”

全部、理帆子の心の声だ。声には出さないものの、常に周りの人間を上から目線で評価し、あだ名をつける。彼女自身、”人を馬鹿にし過ぎる”と自己評価している分、質が悪い。

 

心の奥歯に、人として最低の欲求が蠢いている。私は、彼が堕ちていくところが見たい。

『凍りのくじら』辻村深月 p84

理帆子は、別れてもなお、若尾と会い続ける。友人らに止められても、自分の理性が危険だと判断していても、人間性が腐敗していく若尾をそばで見ていたかった。

若尾は、理帆子に欠けているものを持っている。司法浪人を容認し続け惜しみなく援助する”やさしい”両親、甘い理想、幼児的な万能感。すべてを持つ若尾が、内側から崩壊していく様を近くで見るのは、さぞ甘美に違いない。

 

我々は、因果応報、勧善懲悪を渇望している。原因にはふさわしい結果がついてほしいし、悪いことをした奴は報いを受けてほしい。夏に遊びほうけたキリギリスが冬を越せるなんて許せない。カニを殺したサルが痛い目に合わないなんてあってはならない。コンビニの雑誌コーナーの、いじわる女の末路を描いた漫画や、Web広告の(自称)サバサバ女子漫画がなくならないのは、勧善懲悪に需要があるからだろう。

 

読者は、理帆子を罰せずにはいられない。こんなにも周りの人間を見下し、馬鹿にし、男(主に若尾)に思わせぶりな態度をとる彼女が、痛い目見ないと気が済まない。若尾とのずぶずぶな、不幸の泥沼のような逢瀬に「それみたことか」と言っていやりたい。よく、「共感できる主人公がいるといい作品」だなんていうが、とんでもない。理帆子に共感などしてやるものか。彼女にふさわしい報いを。自分の行いのせいで不幸になっていく様を、わたしに見せてくれ。

 

ふと気づく。自分の”心の奥歯に、人として最低の欲求が蠢いている”、心境に。若尾を見る理帆子のように、読者は理帆子を見ている。「共感できる主人公」じゃない。無理やり共感させられた。

 

そこからは、ひたすら自己嫌悪だ。理帆子を鼻持ちならないとか、若尾を幼児のようだとか、どの口が言うのか。勝手な解釈で人(登場人物)を見下し、神にでもなったかのように評価をする傲慢さ。あれほど嫌った理帆子と若尾は、わたしだった。

 

己の醜さを自覚しても、やっぱり理帆子が堕ちていく様は、見たい。痛いと分かっているのにちぎり取ってしまう、指先のささくれをつつくように、ページをめくってしまう。こうなったら止められない。読了したころの情緒はズタズタだ。

 

だから、「読み返したくない本は?」と問われたら、『凍りのくじら』と答える。己の弱いところも、汚いところも、嫌なところも、登場人物を通して全部明け透けにされてしまう。この作品は、そう何度も読めやしない。

そういいつつも、この作品は心の奥歯にずっとひっかかり、時折顔をのぞかせるので、わたしが持っている『凍りのくじら』の見た目はボロボロだったりする。あぁ読まずにいられたら幸せなのに!